仏教国タイの南端、イスラム文化が息づくマレーシアとの国境の街、ソンクラー。かつて美しい砂浜があったが、高潮によって侵食され、現在は護岸用の人工の岩に置き換えられている。そこで二人の若い女性が出会う。シャティは保守的な家庭に生まれた地元のイスラム教徒。フォンは活動家からビジュアルアーティストに転身し、美術展のために街に来た。
お互いを深く知れば知るほど惹かれ合う二人。同性関係を禁じる伝統のもとで生きてきたシャティは内なる葛藤の波に飲み込まれていく。恐怖と欲望の板挟みになった彼女は、亡くなった最愛の祖母が語った幼少期の古い教訓の物語を思い出す。
シャティの前に、祖母の物語にある奇妙な異世界の出来事が次第に起こり始め・・・。
シャティは自分自身の道を切り開く決意をし、自分が何者であるかを受け入れていく。
異文化とジェンダーの狭間で描かれる、
静かで深い共感の映像詩。
—— 釜山国際映画祭 LG OLED New Currents Award
南部にいる間、地元の若い作家や芸術家と友達になりました。彼らの多くはイスラム教徒であり、アイデンティティの葛藤に直面していました。保守的な家族には知らせずに、同性との関係を築いている人もいました。タイはリベラルであると見なされているかもしれませんが、現実には、特に農村部では LGBTの権利が抑圧されています。そのような中でも、草の根運動は根強く続いています。
私は自分の人生で集めたさまざまなメモや体験をつなぎ合わせ始めました。映画監督や社会活動家としての背景、偏見との出会い、男性性にまつわる有害な価値観を体験したこと、そして幼少期に祖父母と過ごした記憶などです。私はこれらの物語を、それぞれの闘いを共有した友人たちの物語と織り交ぜました。私の共同制作者で、同じテーマに興味を持つイスラム教徒のKalil Pitsuwanが脚本の共同執筆に協力し、内部の視点を加えてくれました。
私は人類が自然現象と絶えず戦い続けていることについて考えています。それはある意味、腐敗した政府が抗議者に対して行うことや、宗教当局が同性愛者に対して行うことと似ています。彼らは皆、最終的にはさらなる破壊をもたらす不毛な戦いに従事しているように見えるのです。
Patiparn Boontarig
選んだ色を纏って生きていけたなら、あるいは脱ぎ捨てられたなら、世界はきっと美しい。
抗っている人にも、受け入れている人にも、寄り添ってくれる、やさしい映画でした。
お互いにないものを持ち寄るふたりの女性たち。
彼女たちが出会ったことを祝福するかのような海の眩さ。
彼女たちしか知らない、秘められた夜の海の暗さ。
『今日の海が何色でも』はささやかな物語かもしれないが、永遠に寄せては返す波のようにその美しさが心に残る映画でもある。
タイ世界とイスラーム世界の交わる場所、ソンクラー。
人間と自然、個人と信仰、性的アイデンティティと異性愛の規範が、岸と波と防波堤のように侵食と再生をくりかえす。
みぎわで起こるそんな変化に翻弄されるシャティとフォンは、水に身を任せることで、自分であることを保とうとする。
透徹した映像と物語の向こうに、変わり続ける変わらないもののかたちが見えてくる。
ありふれた表現を否定し、新たなフェーズへ進む美しき野心作。
人間関係だけでなく、自然の分子が物語に溶け込むことにより深みが生まれる。
効率優先の現代社会に、時間をかけて完成を待つ‘’心‘’が映し出されたアート。
直接的に愛を語らずとも、2人が過ごした時間の流れが感じられる。
海辺の街で、少女のように惹かれ合うその姿は時に幼くもあり、そして同時に完全な姿だった。
波のように儚くも力強い美しさを放っていた。
海風にあたりながら静かに言葉を交わすふたり。
寄せては返す波に想いを乗せて、この気持ちが消えぬように、この海がいつまでも美しくあるように。
祈りにも似た、ささやかな恋心。
バンコクのタマサート大学で映画と写真を学び、卒業後、監督および脚本家として数多くの短編映画やドキュメンタリーに取り組む。プッティポン・アルンペン監督の『マンタレイ』(2018年ヴェネチア国際映画祭)やジャッカワーン・ニンタムロン監督の『時の解剖学』(2021年東京フィルメックスグランプリ)では助監督を務めた。タレンツ・トーキョー2018修了生。『今日の海が何色でも』は初長編監督作である。
出演:アイラダ・ピツワン、ラウィパ・スリサングアン